砂の盾 (前編)

勇者が去ったあとの英雄のその後のはなし
時系列的には「始まりの夜、終わりの朝」の後の出来事。
時のオーブを割った後の世界が巻き戻しでなく並行世界として続いた場合の話です。
















 出立の日は、申し分のない好天だった。
 目を覚ますと、既に日は高く上っていて、宿屋の主人にも「お連れの方たちはもう大聖堂に向かったよ」と言われてしまった。大部屋の一室にひとり残されたイレブンは、焦りつつも慣れた手つきで身支度を整えていた。
 昨夜は皆、夕食時も言葉少なく、聖地ラムダでの夜を思い思いに過ごしていた。恐らく決戦前の最後の穏やかな夜になるから、それぞれ思うことがあったのだと思う。それは自分も例外ではなく、色んなことが頭をよぎりなかなか寝付けなかった。その結果が、この寝坊である。詰めの甘い自分が嫌になる。
 黒のシャツの上に着古したサーコートを纏い、剣の鞘を担ぐ。いつもと変わらぬ動作なのにこの日ばかりは身の引き締まる思いがした。
 世界に散らばった6つのオーブはもう揃った。あとはこれを始祖の森にある台座に捧げて、命の大樹で勇者の剣を手に入れる。そして、ウルノーガを倒す。
 きっと激しい戦いになるに違いない。それでも絶対に負けるわけにはいかない。これまでだって沢山困難な事があったけれど、皆と力を合わせて乗り越えてきた。今回だって同じだ。何も怖れることはない。
 
 勇者の生まれ変わりと言われ、右も左も分からぬうちに旅立つことになり、悪魔の子として命を狙われ、故郷を焼かれ、大切な仲間と出会い、その過程で自分の使命を知り――。
 本当に色々な事があった。楽しいことも勿論あったけれど、辛いことの方が多かったかもしれない。支えてくれる仲間がいなければ、きっとここまでたどり着く前に野垂れ死んでいた。
 そんな自分の旅も、もうすぐ終わる。


 部屋を出る前に、ふと窓から外を眺める。太古の時代からの歴史を感じさせる荘厳かつ清浄な眺望、静かながらも平穏に日々を送る里人の姿。
 イレブンは一つ大きく息を吐くと、踵を返しドアに向かう。もう振り返ることなく。

 それがこの世界での最後の情景になると知る由もなく。











 誰かに名を呼ばれた気がして、グレイグは振り返った。まるでそれが合図であったかのように一陣の風が草原の草花を薙いでいく。
 辺りには自分以外の人間は誰もいない。少し離れた場所にリタリフォンともう一頭、主を失ったばかりの白い馬がいるだけだ。哀しそうな目をして馬房の隅にいるのがどうにも気にかかり、今回初めて遠乗りに一緒に連れてきた。自分の愛馬と気が合うか心配したが、どうやら杞憂だったらしい。二頭は寄り添いながらのんびりと草を食んでいる。リタリフォンは誇り高く、人間だろうが馬だろうが自分以外にはなかなか心を開かないし近寄るのもあまり好まない。その性質を知っているだけに、少々意外な心持がした。おそらく他の馬ではこうはいくまい。
 警戒心のかけらもなく懐こい様子の白馬の姿が、ある人物に重なった。途端、緩みかけた口元が引き攣る。激しい悲しみに襲われ、二頭の馬から目を逸らした。
 頬を撫でる風は冷たく心地良い。空は抜けるように青く、遠乗りには絶好の天候である。だがそれは今の自分には何の慰めにもなりはしない。

 世界を救った勇者がこのロトゼタシアからいなくなってしまったのは、数日程前のことになる。その場面を直接目の当たりにしたというのに、正直今も実感が湧かない。今にも草原の向こうから、自分の名を呼ぶ涼やかな声が聞こえてきそうな気すらする。しかし彼が時のオーブを砕いた後、閃光に包まれ消失したことは紛れもなく現実だった。彼が消えた後の静寂に包まれた空間と、辺り一面に散らばったオーブの残骸が瞼に強く焼き付いて今も離れることはない。
 その後のことは、あまりよく覚えていない。気が付けばマルティナとともにこの砦に戻ってきていた。他の仲間もおそらくそれぞれ帰るべき場所に帰ったのだろう。勇者の祖父であるユグノア前国王のことが気がかりだった。彼には帰る場所も、待つ家族も最早誰もいないのだ。姫によると、暫く砦で共に留まってはどうか、という提案を固辞してひとり去ったとのことだった。もしかしたらユグノア城跡にいるのかもしれない。独りにさせるのは心配だ。近いうちに一度、様子を見に行かねばと思っている。

 命の大樹が復活し、世界は破滅の危機を免れた。それでも受けた傷はあまりに大きい。復興のためにやるべきことはいくらでもある。そしてそれは自分の責務でもあった。世界崩壊の一因を担ってしまった者として、この生涯をデルカダール国だけではなく世界のために捧げようと決めたのは随分と前のことだ。
 本来ならばこのように呑気に遠乗りなどしている暇などない。今すぐにでも砦に戻り精力的に動かなくてはいけない。デルカダール城は巣くう魔物こそいなくなっだが荒廃したままで、復旧作業は未だ手つかずである。それにいつまでも砦に留まる訳にもいかない。あの場所は本来争いとは無縁ののどかな田舎の村だ。早く元通りの生活を住民たちに返してやらねば。そういった事は常に頭にある。それなのに、なぜ此処に足が向いてしまうのか。
 絶え間なく清浄な水を落とし続ける大きな滝を眺めていると、あの出来事が脳裏を掠めた。あれは、常闇の魔物を倒したのち、ドゥーランダ山に向けて旅立った直後のこと。旅立つ前に一寸立ち寄りたい場所がある、とかの少年に頼まれた時だ。
 


『よかった……ここは、無事だったんだ』
 彼は辺りを見回すと、安心したのか安堵の息を漏らした。
 大樹の墜下は全世界に未曽有の災厄をもたらしたが、この滝の周辺はそれを免れたらしい。
 きっと自分は怪訝な顔をしていたのだと思う。少年は自分を振り返るとゆるりと微笑む。
『ここは、祖父との思い出の場所なんです。……あ、ロウおじいちゃんのことじゃなくて、育てのおじいちゃん、ですけど。もう当分戻れないと思うから、挨拶だけしておきたくて』
 そう言うと彼は水辺の近くにあった大きな岩に近づいていく。まるで人工的に削り取ったかのような緻密な三角錐の形をしたそれに手を触れ、目を閉じ口の中で何やら呟き始める。どうやらこの地方に古くから伝わる祈りの言葉のようだった。
 何となく自分も彼に倣い、黙祷する。神職ではない自分が祈りの言葉を口にすることは殆どない。その代わりに胸の中で、この少年を必ず守ってみせると改めて誓った。
 儀式めいたものが終わった後、彼は真っ直ぐ自分を見つめて、行きましょう、と言った。先ほどまでとは少し違う、決意に満ちた大人びた表情にどきりとする。起きてしまった事を正面から受け止め、それでも前に歩もうとする強い意志を感じた。
『長い旅になると思いますが、よろしくお願いします、グレイグさん』



 至近距離から耳に届く馬の鳴き声に、グレイグは我に返った。見ると遠くにいた筈の彼の白馬がいつの間にか自分の傍で佇んでいる。鬣を撫でてやるとつぶらな目を細めて顔を摺り寄せてくる。そういうところもあの少年に似ている、と思った。甘えたい時や感情が昂った時は、彼はよく自分の肩口に顔を埋めて擦りつけたものだった。その仕草が自分はとても好きだった。そうされると心の奥から安らぎや愛情が絶え間なく湧き出てきて、その時だけは使命や規律といった、普段自分を無意識に縛っている楔を外すことができた。
 しかしもう、そう感じることは二度とないだろう。彼はこの世界のどこにもいないのだから。
「寂しいのか、お前も」
 首筋を撫でながら尋ねる。答えなど返ってくるはずないとわかっている。それでも。
「俺もだ。あいつがいなくなって、寂しいんだ。とても」
 声が掠れる。ふいに視界が滲みかけ、きつく目を閉じた。決して悲しみの涙を流すわけにはいかない。それは自分がデルカダールの将だからとか、世界の英雄だからという理由だけではない。正式に騎士の叙勲を受けた時に自発的に課した戒めだった。だからたとえ誰も見ていなくとも泣くわけにはいかぬ。
 彼との最後の逢引の夜も、別れの時も、涙は流さなかった。だから大丈夫だ。これからもきっと、耐えていける。悲しみを糧に何とか生きていけるだろう。たとえこの先、胸にぽっかりと空いた隙間が埋まることは無くとも。
「イレブン」
 恋しい少年の名を呼ぶ。自分の声とは思えないほどの弱々しい声は、吹きすさぶ風に乗って彼方に消えていった。
 今頃何をしているのだろうか。無事に歴史を修正できただろうか。過去の世界で、自分と出会えただろうか。寂しい思いはしていないだろうか。気掛かりな事は多い。しかしもう自分にはどうにもできないこと。断ち切って前に進むしかないのだ。ただひたすら、前へ。
「そろそろ、帰るか」
 誰に言うともなくそう呟き、口笛を吹く。遠くにいたリタリフォンがゆっくりと寄って来た。愛馬の漆黒の目は、まるで今の自分のやり場のない思いを全て汲み取っているかのような優しい目をしていた。



 思ったよりも長い時間、あの滝の辺りにいたらしい。
 砦に辿り着いたのは、太陽が傾きかけた頃だった。魔物との交戦に明け暮れた頃に急場しのぎで作られた、丸太を並べただけの門の傍に、何者かが佇んでいるのが遠目からでも分かった。西日がその人物を照らし正体を暴くと、思いがけない人物に驚いた。相手もこちらに気付いたのだろう、わき目も振らず駆け寄ってきた。それは我が主君の一人娘でありデルカダール国王女のマルティナであった。
「グレイグ!」
「姫様、どうかなさいましたか」
「どうかなさいましたか、じゃないわよ! 貴方を待っていたの。こんな時にどこをほっついてたのよ!」
 砦に戻ってからというもの、姫は祖国とイシの村の再興のために奔走している。忙しく動き回り、凡そじっとしていることがない。おそらく彼女も忙殺されることによって彼のことに折り合いをつけようとしているのだろう。自分と同じく。
 王族自らが率先して働いているというのに、自分は呑気に遠乗りをしていたことは言い逃れできない事実である。グレイグは馬を降り、深々と頭を下げた。
「申し訳ございません。私用で少し出ておりました。私に何か御用でしょうか」
「決まってるじゃない! 事態は一刻を争うの。余程、辺りを探しに行こうかと思ったんだけど、入れ違いになったら面倒なことになると思って此処で待っていたのよ。いつもは鬱陶しいほど近くにいるくせに、どうしてこういう時にいないのよ、もう!」
 興奮した面持ちで捲くし立てるその姿に戸惑う。彼女がこれほどまでに感情をむき出しにすることは非常に珍しいことであった。確かに臣下の自分に対して時折厳しい言葉はあるが、それとは全く違う。まるで子供の癇癪のように感情任せの言葉だった。旅の中で、常に冷静で俯瞰的な彼女がこんな状態になる時が稀にあったことを自分は知っている。
 それはきまって、イレブンが関係する時だった。
「……さっき、ラムダのセーニャから鳥文が届いたの」
 そう告げる姫の唇は震えている。
「鳥文、ですか」
 今時珍しい――そう言いかけて、口をつぐむ。確かに以前のように太平の世の中であったなら、場所によっては鳥文よりも直接馬を走らせた方が早いし確実だろう。しかし今の状況だと、それもままならない。寸断された道は数多くある。地形ごと変わってしまった場所もあるのだ。それに加えて聖地ラムダは険しいゼーランダ山の頂にある。それならば鳥文に頼る方がはるかに早い。
「セーニャは何と?」
 姫はグレイグの問いかけには答えず、代わりに一枚の手紙を差し出した。早く読め、と目線で促され、手触りの良い羊皮紙に目を落とす。おっとりとした気質の双賢の妹には似つかわしくない、乱れた文字がただ数行。前置きも時候の挨拶などもない、至って簡潔な文章が綴られていた。
 最初の一文に目を通した瞬間に頭の中が真っ白になり、書かれている内容を理解するのに暫く時間がかかった。おそらく手紙を手に長時間固まっていたのだろう、痺れを切らした姫に腕を引っ張られ我に返る。
「ちょっと、大丈夫なのグレイグ。気持ちは分かるけどしっかりして」
「は……。…………姫様、これは……一体……」
「私も今、すごく混乱してるの。だけどあのセーニャが冗談でこんな手紙寄越すわけないわよね。それに彼女自身も相当動揺してるみたい。文字にそれが表れてるわ」
「しかし……こんな事があり得るのでしょうか。私たちは確かにあの時――」
「分からない。だから私たちは行かなくてはいけないわ、ラムダへ」
 すぐに支度をして。日没までに此処を発つわよ。
 自分の返事を待たずそう言い放つと、姫は砦の中に駆けだしていく。きっと王から暫くここを離れる旨の許可を得に行ったのだろう。
 その姿を呆然と見送ったあと、ふと手の中の羊皮紙を見た。無意識のうちにきつく握りしめていたのだろう。皺がついてしまったそれを。

 イレブン様を保護いたしました。至急おいで願いたく存じます。取り急ぎご連絡まで。

 書かれていた文章を何度も心の中で反芻しながら、グレイグは二頭の馬と共にゆっくりと門をくぐった。









 ラムダの里に到着したのは、その日の夜更けだった。通常、デルカダール地方からゼーランダ山までの移動は相当の日数を要する。勇者だけが唱えることができる転移の呪文は、当然ながら今は使えない。長旅を覚悟していた二人を助けたのは、キメラの翼だった。
「時の祭壇に行く直前、ベロニカのお墓参りにラムダに寄っておいて正解だったわね。皆はもう来ているのかしら」
 広場への長い階段を上りながらマルティナが口を開く。その声は妙に上ずっていた。グレイグには今の姫の気持ちが手に取るように分かった。
 手紙に書かれていた通り、本当に彼が戻って来たのなら、これ程嬉しいことはない。だが時の番人は二度とこの世界には戻ってこれない、と言っていた。それがどうしても引っかかる。セーニャからの手紙には、何も詳しいことは書かれていなかった。一体何が起きたのか早くこの目で確かめたい。焦りばかりが募って自ずと足早になった。

 里の中心部にある広場に面した一軒の住宅の前で立ち止まる。重厚な円柱に支えられた白亜の建物、ここが双賢の姉妹の生家だ。姫はちらりとこちらを一瞥し、緊張した面持ちで呼び鈴を鳴らした。扉を開けた上品な夫人に自分たちが来た旨を告げると、奥から馴染み深い人物が顔を出した。数日前に顔を合わせたばかりだというのに、懐かしさを感じる。
「――マルティナさま、グレイグさま! ああ、いらしてくださったのですね!」
「連絡をありがとう、セーニャ。それで……あの手紙の内容は本当なの?」
「……はい。詳しいことはお部屋でお話しますわ。さあどうぞお入りくださいませ」
 セーニャの微妙な表情に一抹の不安を感じる。少なくとも、手放しで喜べる状況ではないらしい。はやる気持ちを抑えつつ、彼女の後をついて2階に上がった。
「イレブンさまは、こちらです。皆さまもお揃いですよ」
 そう言いながらセーニャはドアの取っ手に手を掛ける。ドアが開くと同時に、懐かしい――といっても数日前に別れたばかりなのだが――面々の賑やかな出迎えを受けた。
「よう、遅かったじゃねえか。待ちくたびれたぜ」
「ああん無事に来れたのね二人とも! よかったわぁ。明日にでももう一度鳥文を送ってみようかって話してたトコだったのよ」
「これで全員揃ったのう。姫よ、お父上は息災か?」
「はい。父はロウ様のことをとても案じております。ぜひ一度砦にお立ち寄りください。……ところで、イレブンは何処に……?」
 姫の問いかけに、皆水を打ったように黙り込む。カミュが、がりがりと頭を掻きながら、部屋の奥を指さした。そこには、まるで部屋を仕切るかのように天井から大きな白い布が垂れ下がっている。その向こう側の様子は当然ながら窺い知ることはできない。明らかに異常な事態に、胸に滞る不安感が徐々に質量を大きくしていく。無意識に握りしめていた拳が汗ばむのが分かる。
 マルティナ姫が、恐る恐るといった様子でそちらに近づいていく。自分の足は、情けないことに全く動かない。ただ姫の後姿と、その先にあるものを凝視しているだけだった。
 彼女が、仕切り布の端に手を掛ける。振り返ってこちらを見た時の怯えにも似た表情には覚えがあった。子供の頃、悪戯をして王の叱責を待つ時のものそのままだった。16年間、過酷な運命にさらされ、心身ともに見違えるほどの成長を遂げた戦姫でも、こういうところは変わらないのだな、と一瞬妙な感慨を覚える。しかしの感情も彼女が布を引いた瞬間に跡形もなく雲散してしまった。
 仕切り布の向こう側。壁際に備え付けられた寝台の上に、彼はいた。
 目を閉じ微動だにせず横たわる姿に、姫も自分もただ言葉を失い立ち尽くすだけだった。



「イレブンさまを発見したのは、時の祭壇で皆さまとお別れした次の日の朝でした」
 飲み物の入ったカップを一人一人に差し出しながら、セーニャは話し始めた。
「交代で門番をしておられた方が泡を食った様子で此処に飛び込んでこられたんです。里の入り口近くの草むらの中に、勇者さまに似た方が倒れている、と。最初は人違いに違いないと思いましたわ。けれど……実際にお姿を拝見して確信しました。この方は紛れもなくイレブンさまだと」
 そう言って彼を見遣るセーニャの眼差しは、労わりと敬愛に満ちていた。しかしそれもつかの間、彼女は目を伏せて続ける。
「……もう5日になりますのに、まだ一度も目をお覚ましになりません。神父さまにも診ていただいたんですが、特に外傷はないとのことでした。毒や呪いを受けた様子もなく、本当にただ眠っているように見える、と。きっと近いうちに目を覚ますだろう、と仰ってくださいましたから、今の私たちは、その言葉を信じて待つしかありませんわ」
 まるで言い聞かせるような言葉に、皆神妙な顔をしつつ頷く。
 勿論自分も彼女の言葉に異論はない。待つことなど、彼がいない人生を生きていくことの辛さに比べれば、どうということもない。しかしどうにも腑に落ちない点があった。
「――そもそも、何故イレブンはこの里に倒れていたのだろうか。俺達は確かに見た筈だ、あいつが時のオーブを砕いてその場から姿を消したのを」
「失敗したんじゃねぇの? あの番人も言ってたよな、うまくいくかどうかは分からない、って。なんかの理由でミスって戻って来たんだろうよ」
「だとしても何故、あの塔ではなく此処なのだ」
「それは……わかんねぇけど。……グレイグのおっさんは細かい事気にしすぎなんだよ。もっと素直に喜べよ! あいつが帰って来たんだからそれでいいじゃねぇか」
 苦笑いを浮かべたカミュに肩を小突かれ、曖昧な笑みを返した。確かに少し神経質になっているのかもしれない。喜ばしい事なのに妙に用心深くなってしまうのは、余りに急激な状況の変化に理解がまだ追いついていないからなのかもしれない。何となく、夢の世界を漂っているような覚束なさを感じるのだ。
「――アタシね、ちょっと気になることがあるのよ」
 優雅な仕草でカップに口を付けた後、シルビアが口を開く。
「イレブンちゃんの持ち物、やたら簡素じゃない? それに、魔王ちゃんを倒した時に拾ったあの趣味の悪い大剣は何処にいっちゃったのかしら?」
「えっ……ないの?」
 姫の問いかけに頷いたのはセーニャだった。
「ええ。里の人たち総出で、イレブンさまが倒れていらした周辺を探したのですが、見つからなかったのです。旅立つ際に時の番人さまが、暫くはこれを使うように、と仰っていたのでお持ちの筈なのですが、どこにもなくて」
「それってマズくない? あんな邪気に満ちた物騒な剣、誰かに拾われでもしたら――」
「まぁ、あの剣を使いこなせる人間がそういるとは思えんがのう。実際、イレブン以外、儂らの誰一人として振るうことも叶わんかったのだし。だが、万が一と言うこともある。明日にでも、もう少し範囲を広げて探した方がよかろう」
「そうですね。……それにしても、まだ信じられない。イレブンに、また会えるなんて。もう二度と会えないと思っていたから……」
 感極まったのか姫の声が滲んでいる。それにつられてか、自分にもじわじわと実感が湧いてきた。
 イレブンが、確かに此処にいる。自分のすぐそばで眠っている。もう二度と会えない覚悟で手放したものが、思いがけず戻ってきた事が奇跡のように思えた。
 簡素な寝台の上で、彼はこんこんと眠り続けている。寝息も聞こえず、微動だに動くことはない。本当に生きているのか不安に思えるほどだ。
 早く目を覚ましてほしい。快晴の空を思わせる蒼い目を早く見たい。亜麻色の髪に触れ、細い体をこの腕に抱きしめることができれば、きっとこの形容しがたい不安も消えるだろう。
 過去に渡るのに失敗したとしても、そんなことは知ったことではない。彼は立派にこの世界を救ったのだ。これ以上何を背負う必要があるのか。過去の世界だけではない、この世界にも彼は必要なのだ。復興と希望の象徴、旗印となる人物が。
 もう決して手放すわけにはいかぬ。世界のためにも、そして何より、自分のためにも。
 カップの中のものを一気に飲み干した。口の中に広がった苦みをやりすごすように、グレイグは大きく息を吐いた。


† † † † † † † †


「見ーつけた! 散々探したわよ。何してるの」
 馴染み深い声に、グレイグは手にしていた大きな岩石を脇に放りながら答える。
「見て分かるだろう。破壊された瓦礫を片付けているのだ。この里の人間だけでは、いつまでかかるか分からんからな」
 ここラムダも惨禍の爪痕は大きい。この地独特の様式の、荘厳な列柱も美しい石像も、その多くが破壊されてしまった。その上、この里には若年層が極端に少ない。少しでも復興の助けになるなら、何でもやるつもりだった。
 ここにやってきて早3日になる。仲間内で交代でイレブンの様子を見守っているが、それ意外の時間はこういった作業をするのが日課になりつつある。里人に感謝されるのは、単純に嬉しかったし、それに、体を動かしていた方が余計な事を考えずに済む。
 アナタのそういうところは立派だと思うけど、とシルビアは肩をすくめた。
「わざわざこんな隅っこで隠れるようにやらなくてもいいんじゃない? 広場のほうにもまだ瓦礫いっぱいあるわよ?」
「……先ほどまでそっちでやっていて、ご婦人方に絡まれたので此処に逃げてきたのだ」
「ああ、そういうこと。アナタ、この里の女性達にやたら人気があるわよね。モテる男は辛いわねぇ」
「勘弁してくれ……」
 心の底からの感想を口にする。挨拶程度の会話なら苦ではないが、分不相応な褒め言葉やお茶の誘いなどをやり過ごすのは本当に疲れる。それならば凶悪な魔物と対峙しているほうが余程精神的に楽だ。
 そんな自分の思いを知ってか知らずか、シルビアはけらけらと楽しそうに笑っている。
「そういうトコ、昔からホントに変わらないわね。それでよくイレブンちゃんの心を射止められたものだわね。感心しちゃう」
「おいっ!? 貴様、いきなり何を言い出すのだ!」
「あら、貴方たちのコト、みーんな知ってるわよ。あれだけ何度も夜に二人で抜け出しておいて、バレてないとでも本気で思ってたの?」
「なっ……!」
 思わず持っていた瓦礫を足の上に落としそうになった。そんな自分を、シルビアは心底呆れたように手にしていた扇で顔を扇いでいる。
「いいトシした男の純愛ってやだわ。全く周りが見えていないんだもの。イレブンちゃんはまだ子供だから仕方ない面もあるけど、だからこそアナタがもっと気を付けなきゃ。ま、人の恋路に口出すなんて野暮だからこれ以上は言わないでおくけどね……あ、でもね」
 普段の人好きのする悪戯っぽい表情から、妙に真剣みを帯びたそれに変えながら、男は続けた。
「これだけは言わせて頂戴。その堅物で直情的なトコはアナタの魅力の一つだとは思うけど、時に取り返しのつかないことになりかねないってことは覚えておいて」
「……それは、どういう――」
「真っ直ぐな人間ほど、極端な方向に向かいやすいってことよ。それが良い方向に向かえばいいけど、その逆だと……目も当てられない事になるわよ」
 アナタを見ていると時々心配になるの。危なっかしくて、とシルビアは言う。その目を見れば、揶揄いや戯れではなく、彼が本当に自分を案じてくれているのが分かる。
 しかし意味が分からない。この男の目には、自分はそれ程頼りなく見えるというのか。この、自分が。
 言葉の真意を確かめようと自分が口を開くのと、カミュが息せき切って駆けつけてきたのはほぼ同時だった。
「おい、こんなとこにいたのかよ! あいつが目、覚ましたぜ!! 早く来いよ!!」



 屋敷に飛び込み、大理石でできた階段を駆け上がる。あまりの勢いに、在宅中であったセーニャの両親が目を丸くしていたが、頓着している余裕はなかった。半ば押し破る勢いでドアを開けると、そこには膝をついて寝台を覗き込んでいる三人の姿があった。
「皆さん……! イ、イレブンさまの意識がお戻りになりました!」
 振り返り、今にも泣きだしそうな様子でセーニャが告げる。イレブンは相変わらず寝台に横になっていたが、その目は確かに開いていた。まだ目覚めたばかりなのだろう、ぼんやりと天井を見ているだけだったが、その姿を目にするだけで、えも言われぬほどの安堵と感慨がこみ上げてくる。
「イレブンや、わしじゃ。お前の祖父のロウじゃ、分かるか?」
 ロウが優しく孫の体を揺する。宙を漂っていた視線がその様子を捉えると、イレブンは微かに微笑んだ。
「…………はい。おじい、ちゃん」
 弱々しい声が響く。誰よりも愛おしい、自分が最も大切な者の声。
 室内の張りつめていた空気が一気に和らいだ。マルティナ姫とセーニャは手を取り合って飛び跳ね、カミュはガッツポーズをする。グレイグもシルビアと顔を合わせて笑い合った。
 しかし、そんな幸せな時間もほんの一瞬だった。
 イレブンの視線がゆっくりと他の仲間たちに向けられる。マルティナ姫、セーニャ、カミュ、シルビア――そして。彼の焦点が定まっていなかった目がグレイグを認識した瞬間、大きく見開かれた。
「え……ど……して、ここに……」
「イレブンさま? どうされましたか、まだご気分が優れませんか?」
「セ……ニャ……」
 少年の視線が、自分から少女に移った。毛布の中から細い腕が伸びる、彼女に向かって。僅かに顔を赤らめながら、セーニャは両手で、伸ばされた手を取った。
「イレブンさま……?」
「……いつ、髪を切ったの……? それに、ベロニカは……?」
「えっ?」
 その時、激しい悪寒が背中を走り抜けていった。まるで髪を短くした少女を初めて見るようなイレブンの反応に、恐ろしい可能性が脳裏をよぎる。
 他の皆も困惑した顔で彼を見ている。そんな雰囲気に気付かないのか、少年はああ、と表情を緩ませた。
「……まだ、ちゃんと起きてない。……きっと、夢を見てるんだ、ね……。そ、か……」
 ごめん、もう少し、眠らせて。絶え絶えにそう言い切ると、イレブンはまた目を閉じた。
 暫くの間、誰も口を利かなかった。重苦しい沈黙を最初に破ったのは、カミュだった。
「――とりあえず、さ。あいつ起こしたくねぇし、場所変えようぜ」


 1階の居間に移動した後も、皆一様に言葉少なだった。 
「……きっと、長い間眠っていたから記憶が混濁してるのよ」
 まるで自分に言い聞かせるかのような姫の言葉は、いつものような覇気がない。
「もう少し休めば、きっと元通りになるわ」
「でも……あの時のイレブンさまはまるで髪を切った私を初めて見るような顔をしていらっしゃいました。それに、お姉さまのことまで忘れてしまわれるなんて、考えられないのですけれど」
「…………あやつは、本当に時のオーブを割ったイレブンと同一人物なんじゃろうか」
「おい爺さん、いきなり何言い出すんだよ」
 余りに突拍子もない言葉にカミュが口を挟むも、ロウは構う様子もなく続けた。
「時の番人の言葉を覚えておるか? 時のオーブを壊せば世界が闇に覆われる直前に戻ることも出来るかもしれない、確かそう言ったとわしは記憶しておる」
「ええそうよ。アタシも覚えているわ」
「イレブンが’その時’に戻ったとしたら、元々その時に存在している筈のイレブンはどうなるのかと考えたことはあるか?」
 誰かが息を飲むのが聞こえた。
「ロウ様、それって――」
「いや、これはわしのただの妄想にすぎん。しかしもしもそうならば、諸々の事の辻褄が合うように思えてな。例えば、一向に見つからぬ魔王の剣……あれは失くしたのではなく、まだ手にしていないとすれば……」
 先ほど感じた恐ろしい可能性が明確な形をとりながら心の中を占めていく。

 世界が闇に覆われる直前。それは、言い換えれば、ウルノーガに勇者の剣を奪われる直前、ということだ。
 当時の自分と少年の関係はどうだったか?
 そう考えると、自ずと先ほどの彼の自分を見た時の反応の説明がつくのではないか。
 あの時の彼の目に宿っていたのは、驚愕と畏怖、そして嫌悪。時の祭壇で、消失するその直前に自分に向けた眼差しとは、まるで真逆の感情。

「――アタシは平気! もしロウちゃんの言う通りだとしても、そんなの関係ない! どんな形であれ、この世界にいてくれればそれで嬉しいもの。イレブンちゃんはイレブンちゃんでしょ。アタシの愛はそんなことじゃ揺るがないわ! アタシはこれまで通り愛し続けるわよ!」
「お、おうよ! オレだっておんなじだ! オレは相棒としてずっと一緒にやってきたんだぜ。どんなアイツだろうと、あ、あ、愛してやらぁ!」
 普段どこか冷めたところのあるカミュが、シルビアに続いてそう主張したのは意外だった。他の仲間も驚いたのか目を丸くし、その後破顔しながら頷いた。くすくすとセーニャが笑い、マルティナが呆れたように――だがどこか安心したように――肩をすくめ、ロウが髭を撫でながら目を細める。その場の緊迫感がみるみる解れていく。
 シルビアの、その場の空気を和ませる能力にはただただ驚くばかりであった。
 仲間の暗い顔は見たくない、守りたい。旅芸人と騎士の両方の矜持を持つ旧友に、グレイグは改めて畏敬の念を抱いた。

 同時に、その輪の中に入れずにいる自分に気付く。
 人の想いの深さに優劣などつけるのがそもそも間違っているのだけれど、それでも敢えて言うならば、自分の少年に対する気持ちが他の仲間に劣っているとは思わない。
 彼の前に跪き、盾になることを誓ったあの時から彼は自分にとって特別な存在で在り続けている。いつしかそれに別の感情が付随して、一層その想いは強くなった。彼の欠点――時に意固地になりやすかったり、全てを抱え込もうとする利他的な性格――も含め、その全てを愛しく思っている。
 だのに今、純粋に少年への想いを口にする仲間たちを前にして居心地の悪さを感じてしまうのは何故だ。所在無く握りしめるこの拳は誰のものだ。

 ふと、シルビアと目が合った。一瞬気遣わし気な感情を滲ませた彼に、グレイグは心配するな、と頷いてみせた。


† † † † † † † †


 翌日は、厚い雲がどんよりと聖地の空を覆っていた。窓越しに今にも降りだしそうな空を見上げ、グレイグは大きく息を吐いた。
「――やはり、告げてしまったのは尚早だったのではないだろうか……」
「しかしグレイグさま、いつまでも隠し通せることではありませんわ、世界のことも、お姉さまのことも……。実際イレブンさまは、家から一歩外に出ただけで、この里のあまりの変わりように言葉を失くしておいででした。真実を知るのが遅ければ遅いほど、余計に傷ついてしまわれる気がするのです……」
「ああ、いや……確かにその通りだな。別に責めているわけではないのだ。そう聞こえてしまったならすまない」
「いえ……。私のほうこそ、申し訳ありません」
 気まずそうに目を伏せるセーニャの姿に、胸が痛む。彼女は誰も率先してやりたがらない役目を務めてくれたというのに。
 姉が亡くなってから見違えるほど強くなった、と皆口を揃えて言う。自分は以前の彼女がどういった人物だったかは知らない。だが自分の知る双賢の妹は賢く、優しく、そして強い。
 とはいうものの、彼のことがどうしても気にかかる。先ほどまでこの部屋で行われたやりとりを思い返しながら、また窓の外に目を向けた。


 6つのオーブも揃い、いざ始祖の森へ向かおうとする直前だったのだと少年は言った。ラムダの大聖堂に向かう途中で急に立っていられないほどの眩暈に襲われてそのまま意識を手放してしまったのだと。
 そんな彼が自分に目をやったのは、一度だけだった。その時、蒼い瞳に宿った感情は昨日とまるきり同じものだったが、彼は大声を出したり取り乱したりはしなかった。その後彼は強張った顔で、静かに口を開いた。
『……どういうこと? 僕が眠っている間に、何があったの?』
 
 魔王の復活、大樹の落下、世界の崩壊。それらのことをセーニャが話し始めると、彼の顔からみるみる感情が抜けていった。普段は健康的な顔色も少しずつ色を失い、大きな蒼い目だけがぎょろぎょろと動くその姿はひどく不健康に見えた。
 極めて大人しかった彼が大きく取り乱したのは、ベロニカの事に話が及んだ時だった。
『ちょっと待って……嘘でしょう? だって僕たち、前日まで一緒だったんだよ? 宿屋の食堂でみんなと一緒にご飯食べて、部屋の前で別れたんだ。その時に、明日は大事な日なんだから寝過ごすんじゃないわよ、って言われた。声だって表情だってはっきり覚えてる。死んだなんてあり得ない! 僕は信じない!』
『イレブンさま…………残念ながら、これは嘘でも夢でもないのです。辛いお気持ちは痛いほどわかります……けれどどうか心を強くお持ちください。私たちがついておりますから』
『そんな……』
 彼は呆然とセーニャの顔を見つめていたが、やがてくしゃりと顔を歪ませうなだれてしまった。肩を震わせ、毛布をきつく握り占めている。哀れで見ていられなくて、思わず一歩前に出た体は、マルティナ姫の制止によって行き場を失う。彼女は固い表情でこちらを見、小さく首を振った。
 ぎり、と歯を食いしばる。歯痒くて堪らなかった。ああいった時どうすればいいか自分はよく知っている。
 二人きりで旅をしていた時にも、似たようなことが度々あったのだ。例えば悪夢に苛まれた時、ふとした拍子に忌まわしい記憶が蘇った時。そんな時、苦痛を堪えるように静かに涙を流している少年の手を握り、傍らに引き寄せ、この胸に抱きとめたのは一度や二度ではなかった。今にして思えば、彼を救うための行為が結果的に自分を救ってくれていたのだと思う。その証拠に、彼とあの砦で再会する以前に時折感じていた贖罪感からくる希死念慮が消えうせ、自分が生きる意味を見いだすことができたのだから。
 けれど今。彼の傍らで手を握っているのは彼の祖父で、あやすように抱きしめているのはシルビアだった。本来自分の役目だった場所に、他の人物がいる。
 目の前で最愛の人間が苦しんでいるのに何もできず、ただ眺めているだけの自分が苛立たしく、グレイグはきつく目を閉じ、その光景から目を逸らした。
『――ベロニカのところに、連れて行って』
 暫くして絞り出すような声が部屋に広がる。顔をあげたイレブンの頬を、一筋の涙が伝って落ちた。



 日が傾き始めたのだろう、暗い空が益々暗くなってくる。耐えかねたのか姫が口を開いた。
「……そろそろ様子を見に行った方がいいと思うわ。あの子をこれ以上一人には、できない」
 その言葉に反対する者はいなかった。
 ベロニカの墓前に立つと「お願いだから暫く一人にして」とイレブンは言った。自分たちに背を向けていたからその表情は窺い知ることはできなかったけれど、感情が今にも消えてしまいそうな声を思い出すと、どうしても最悪の事態を想像してしまう。
 幸いにもベロニカの墓がある静寂の森は、セーニャの自宅のすぐ裏手にある。何かあればすぐに駆けつけられると判断して皆、彼の希望を汲んでその場を離れたが、もしかしたらそれは誤りだったのかもしれない。多少距離をおいてでも、目に見えるところで控えておくべきだったのかもしれない。彼の身になにかあれば、今度こそ取り返しのつかないことになる。後悔してもしきれないだろう。
「――オレ、迎えに行ってくる」
「俺に行かせてくれないか」
 口から滑り出た言葉にこもる切実さに、グレイグ自身が驚いた。今にも部屋を飛び出そうとしていたカミュは、困惑した顔で振り返る。
「おっさんが……?」
「ああ。頼む」
「グレイグ……アナタの気持ちは分かるけど、今のイレブンちゃんの精神状態を思うとそれはあんまり賢明じゃない気がするわ。だってアナタは――」
「言われなくても分かっている。だが、言葉を交わさないと何事も始まらんだろう」
「それは、そうだけど……」
 シルビアが困ったように頬に手を当て、伺いを立てるようにロウを見つめる。マルティナも、セーニャも、そしてカミュも。恐らく彼の祖父に判断を委ねようと思ったのだろう。
 皆の視線を一身に受けている老人は、ゆっくりとグレイグを見上げた。普段の飄々とした雰囲気はなりを潜め、彼は妙な威圧感を漂わせながら、感情の読めない漆黒の瞳でただ自分を見つめている。気圧されそうになりながらも黙って見つめ返すと、やがて彼はいつもの穏やかな口調で言った。
「……よかろう。そなたに任せよう。頼んだぞ」
「はっ。有難うございます。行ってまいります」
「グレイグ、言動には気を付けるのよ。お願いだからあの子をこれ以上悲しませたり、混乱させたりしないで」
「承知致しております」
 短く答えると、はやる気持ちを抑えて部屋を後にした。


 静寂の森の入り口に来たところで、雨粒がひとつ、頬に当たった。雨除けの外套を持ってこなかったことに舌打ちをしつつ、先を急ぐ。取りに戻る時間すら、今は惜しい。
 静寂の森は、ところどころ災厄の影響で焼け焦げた木々が点在しているが、それでも清浄な雰囲気に満ちていた。神聖さを感じる森の最深部、大樹の根元に、彼はいた。その場に座り込み、ベロニカの墓石に寄りかかるように体をあずけている。何を見ているのか、それとも何も見えていないのか分からない覚束ない眼差し。生気のないその姿は糸が切れた操り人形に似ていた。
 雨が本格的に降り始める。人を拒絶する空気を体に纏った少年に、躊躇いつつ声を掛けた。
「イレブン。日が暮れて、皆心配している。そろそろ、帰ろう」
 彼はゆっくりと首だけを動かしてこちらを見た。何の感情も宿していなかった瞳が僅かに揺れるのがわかった。
「…………」
「雨も降りだした。まだ本調子でない体を冷やすと風邪をひくぞ」
 通り一遍の言葉しか出てこない自分に苛立つ。もともとあまり多弁な人間ではないし、部下や、気心の知れた相手なら自分の真意を汲んでくれたから問題なかった。実際、目の前の少年にもいつもこんな風に接してきたし、それで十分だった。自分の素っ気ない言葉に素直に頷いてくれた屈託のない笑顔が、今は無性に恋しい。
「――あなたには、その方が好都合じゃないんですか」
 彼の声は、ひどく冷ややかだった。
「どういう、意味だ」
「言った通りの意味です。僕の死を誰よりも望んでいたあなたにとってはその方がいいのかなと思って」
「そんな事はない。俺は――」
「僕は」
 グレイグの返答を遮るように、イレブンは言葉を紡ぐ。
「セーニャから大まかな話を聞いた今でも、あなたが僕たちと共に在る、というこの状況がどうしても理解できないんです。散々僕たちを追い回して殺そうとして、それだけでなく僕の故郷まで焼き払って、母さんや大切な人達を」
 それ以上口にしたくないのか、出来ないのか、ふいに言葉を打ち切って彼は自分を正面から見据えた。

 過去からやって来たばかりのこの少年は、イシの村の住民達が無事だということをまだ知らない。自分が取り成して彼らを保護していたことも知らない。しかし今、この状況でその事を口にして弁解する気には、どうしてもなれなかった。
 彼を抹殺しようとつけまわしていたのは事実。そして、自分が直接手を下してこそないにしろ、彼の村を焼き討ちにしたのは紛れもなくデルカダール軍であり、自分はその将だった。責めの一端は確実に自分にもある。どうして申し開きなどできようか。
 グレイグが何も弁解しないことに、少年の視線は鋭さを増す。根っからの善人である彼は、こんな状況にあっても人を傷つける言葉を口にしようとしない。しかしその蒼の目は言葉よりも雄弁に語っていた。なぜ、ここにいるのがあの少女ではなくてこの男なのか、と。

 雨足が徐々に激しくなる。着ている服に雨がしみこみ、体に纏わりつく。不快だったがそんなことに構っている余裕はない。
 ずぶ濡れになった体で、数歩近づく。するとそれまでの緩慢な動作が嘘のように、彼は機敏な動きで立ち上がり、体勢を整えた。敵と相対した時の癖だろう、剣の柄に手を掛けようとし、帯剣してないことに気付くと焦りの表情を浮かべる。
「信じてほしい。俺はもう決してお前を傷つけようとしない。お前の憤りは分かる。だが、少しだけでいい。俺の話を聞いてくれないか」
「……あなたが、それを言うの? 出会う度、何度僕はあなたにそう言いましたか? それでもあなたは一切聞く耳を持ってくれなかったじゃないか」
 少年は乾いた声で笑った。しかし目は笑っていない。恐怖と憤りでぎらついている。背を丸めて臨戦態勢をとるその姿は、まるで満身創痍の山猫のようだった。
「――信じられない。だってあなたとは数日前にミルレアンの森で会ったばかりだから。その時もあなたは僕のことを悪魔の子、と、呼んで……」
「イレブン、落ち着け」
 敵意がない事を示すため両手をあげた状態でまた、一歩一歩、ゆっくり彼に近づく。彼に手が届くまで、あと数歩。焦がれ続けて、夢にまで見た相手にもうすぐ触れることができる。
「来ないで!」
 鋭い牽制の声も、今の自分にはもう意味を成さなかった。一気に距離を詰めて細い腕を掴み、力を込めて引き寄せる。すぐ近くで息を飲む音が聞こえた。
 一回りも二回りも小さい少年の体を抱き込むなど容易い事だった。濡れた服越しに彼の体温がじわじわと伝わって、ようやく腹の底から実感する。彼は、確かにここに存在している。

 忘れられた塔で彼と別れてから今日までのあいだに、何度後悔したか分からない。彼は勇者なのだから仕方ない、とか、彼の意見を尊重しなければ、などと尤もらしく自分に言い聞かせて、結局一度も彼を引き留めなかったことに。もしも一言「行くな」と言っていたなら、もしかしたら彼は考えを変えたかもしれないと、想像するだけでやりきれなかった。何故、もっと素直になれなかったのか。年長者としての、英雄としての体裁ばかり気にして、何故、なりふり構わず彼に縋りつかなかったのか。そうする機会はあったのだ。たとえば、最後に愛を交わしたあの夜にでも。なのに自分はそうしなかった。最後まで本心を隠して、彼の一番の理解者を演じ続けた。その結果、自分は一度、彼を失った。
 この悔恨をずっと抱えて生きていくのだと思っていた。そしてその覚悟もあった。けれどこれからはもう、その必要はない。
 今度は二度と手放さない。決して。何があろうともだ。

 彼の濡れた髪に顔を埋める。嗅ぎ慣れた爽やかな香りを吸い込み、満ち足りた吐息を漏らした。彼と離れてからようやくまともに呼吸ができたような気さえする。
 だが、突然抱きすくめられた格好になった少年にとっては、苦痛以外の何物でもないに違いない。
「何……何するんですか、いきなり! 放して……はなせ!!」
 イレブンはグレイグの胸に手をつき、距離を取ろうと必死にもがいている。抱きしめていた腕を緩めると、途端に体を引き剥がされた。
 はぁはぁと肩で息をしながら燃えるような目でこちらを睨みつけている。おそらく罵言でも吐こうとしたのだろう、彼は口を開き――しかしそのまま言葉を失ったように黙り込んだ。怒り、怯え、困惑、恥辱。そういった感情が綯い交ぜになった目に、ふと気遣うような光が宿る。
「…………どうして、そんな顔で、僕を見るの……それに」
 ゆるゆると少年の細い腕が伸ばされ、そっと目尻に触れてきた。
「泣いて、いるんですか……? なぜ……」
 先ほどの怒気が嘘のような躊躇いがちの問いかけに、グレイグはようやく自分が涙を流していることに気付いた。滴る冷たい雨とともに頬を伝う歓喜の涙は、紛れもなく温かかった。





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